「五代目小平次 極みスイートポテト」5月22日正午より発売

五代目小平次 極み芋羊羹

小平次について

川小商店創業者 齊藤小平次は江戸時代末期に川越藩(今の朝霞市根岸台)にて生を受け、小さな庄屋の二人兄弟の末っ子として農作業(芋づくり)を手伝っていました。小平次が小作の人達と苦労して作った芋は新河岸川の船に乗せ、荒川を経て隅田川浅草花川戸河岸へ送られました。東京までは風向きや汐の干満に左右され浅草花川戸河岸まで2~3日もかかり、更に小舟に乗りついで浅草駒形の弊社や東京中に配送されていました。

そんな苦労しているのに、江戸・東京の芋問屋は「品質が悪い」とか「傷み(クサレ)が出た」とか言い、最初から半金の手付金しか払わないのに更に値引きされて、食べて行けない小作の人達が続出、小平次はそれを見かねて「ヨシ!オレが東京に出て問屋として、自分の村のサツマイモは自分で売ってみようと、駒形河岸に1876(明治9)年8月、店(川越出身の小平次で川小商店)を開きました。
最初は苦労しましたが、問屋業と焼芋小売業で何とかしのいでいるうちに、品質の良さ・価格の安さが評判となり、次第に店の勢いがつき、東京甘藷問屋組合に加入の誘いを受けました。

小平次が加入してから旧態依然とした問屋も少しずつ是正され、当社の社訓も、「来年もまた、川小さんの原料を作らせて欲しい」という生産者の声を反映して『再生産価格の維持』と農家出身の小平次らしく定めました。

1923(大正12)年関東大震災で当社も本店・江戸通りに面した木造3階建の小売店とカフェも全焼しました。とりあえず本社を再建しましたが、またまた1927(昭和2)年、上野から浅草への浅草通りに駒形橋架橋の為、行政の命令で立ち退きとなり、現在の場所に移転させられました。小平次は度重なる心労の為、1925(大正14)年逝去しましたが、農業=農家と共に歩む姿勢は今も引き継がれています。そして五代目となった今、農家の方が苦労して作ったすばらしい芋をつかい、芋本来の美味しさを最大限生かした商品が「五代目小平次 極み」なのです。

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